(’A`)
サブカル系の文化が閉じていっているというか純化している感じがする。
J-popやらラノベやらアニメで育った世代が、
そのまま担い手になったからっていうのは、まぁ結局誰もが考えつく帰着点なんだけど。

J-popで育った人がJ-popを作れば、
よりJ-popな傾向に特化した曲になるだろうし、
小説、アニメで育った人がそれらを作れば、
より高度(?)な記述表現やらアニメでの演出が出来るんだろうとは思う。
ただアニメやラノベにおいて高度な表現であるからといって、
それが評価されるわけではないのかなと。
作り手がそれらで育ったように、受け手でも同様に育った人がいて、
つまり成育過程で同様の情報を共有している人達がいるのだから、
それを前提とした物作りをしても、一定の評価はされる。
また受け手は成育過程で見てきたものを評価しているから、
同様のものを求めるというニーズが確かにあるわけで。
現在アニメ・ラノベの黎明期(?)を見て育った層が作り手になって、
同様の層が受け手として存在し、
そのニーズに応える事で市場・産業として成り立っているわけだけど。
ニーズに応えていくだけではこれから先、産業としては先細りしていくと思う。

ある一定の情報の共有を前提として制作は、
より高度な表現・演出を可能にすると思うんだけれど、
結局それらは排他的というか、新規に対する求心力がない。
前提条件部分をクリアしていない人にしてみれば、
古典的な表現・演出と斬新で高度なそれを比べてもどれも等しい。
逆に難解だとされて避けられる材料になるかもしれない。
現在の市場のニーズに応えようと努力する事が、
より新規を取り込みづらくする原因になっていると考えられる。

ではより拓かれたものとするにはどうすればいいかと考えるならば、
リアリティーの追求なのだろうと。
過去において大きく産業を広げ黎明期を作り出した作品らと、
現在の市場に溢れる作品らとの差異を考えると、
過去においては創作者が自らで動き、現実から1次情報として得たものを、
作品でもって表現していた。
現在の創作者らはそれらの作品を見て育ち、
いわば1次情報をもって作られた作品から2次情報として現実を汲み取り、
自らの創作を行っているのではないかと。
そこに所謂リアルとの齟齬が生まれ、違和感をもって排他性を持つ。
SFとかリアリティーがあるわけないとか思われるかもしれないけど、
世界観の設定などはあまり大したものではなく、
作品の中心として描かれて動くは人であり社会であって、
そこに整合性を持たせるのがリアリティーなのではないのかなと。
現実から情報を汲み取る事を考えた時、
アニメや小説は多様な作品群やその自由な表現で、
あたかも現実が描かれているかのように錯覚するが、
そこには正確な意味での現実はない。

昨今でいえばPCも同様と考えられる。
技術が進み情報が大量に氾濫するようになったこの時代、
様々な形で世界・現実が描かれる。
そんな時代だからこそ、自らで足を運び、目で見て、耳で聞く事が
より大事なのではないだろうか。



なんか適当に簡単に書こうと思ったのに超長文。
15分ぐらいで書けると思ったら2時間ぐらい掛かった(’A`)アホス
文体整えて添削したら、なんかどっかの本に載りそうですね^q^
というか文体が無茶苦茶なんだけど今更直すのめんどいのでやめ。
1次情報と2次情報の決定的差異は匂いだと思うんだけれど、
あまりその辺は絡めて書けなかった。
途中でアニメ・小説に絞った感じがするけれど、
映画やドラマなんかも同様かと。

コメント

KEM
2009年6月24日17:21

ゲームやアニメの製作サイドのインタビューなんかだと、「初見でもわかり易く」とか「小さな子供たちにも楽しんで欲しくて」なんて苦労話が昔からよく出てて、そういうプロ意識って偉大だなと思いながら見ていたんだけど、そういう業界が先細りしているんだとしたら、そういうエピソードを知らない中途半端な人材が多いのだろうか?なんて思えてくる。

2次情報の匂いみたいな部分の話だと、自分が最近思っているのは、例えば「オレンジジュースをベースにしたカクテル」というニーズがあるとして、質が低い商品ってのはオレンジジュースにウォッカを混ぜただけとかそんな感じ。かくし味とかスパイスを軽視していたり、入れる気が無かったり。果汁とアルコールは必須条件だしそれは昔から同じ条件。だけど、新しさとか斬新さってのは別に出しようがあるんじゃないかって思う。ウォッカの銘柄だけ変えても差がほとんどわからないし、受け手の多くは「なんだパクリか」と思うだけで終わり。きちんと伝わるだけの差を持たせてない感じを受ける。マニアックな層にしかわからなくていいというポリシーでやっているんなら止めはしないけど、そういうつもりではないのにそうなってしまっている例は多そう。

今の世の中が「実績第一主義」で、前例の無いものを排除したがる傾向なのもまた別の理由としてある気もしますね。

haifon
2009年6月24日23:58

「初見でもわかり易く」っていうのが自分は作品に対する前提条件の緩和であって新規への求心力とイコールにはならないかなと。現状2次情報なしに自分の世界を構築してる人はおらず、2次情報の選択によってその人が志向性が決定・促進されると思うけど、その志向性の外から訴えかけるには、全ての2次情報の基本である現実からの1次情報を如何に組み込む事。逆に言えば、1次情報もなしに興味のない2次情報から作られた作品見ても感じ入るものがないかと。
実際そういう事に取り組んでる人もいるだろうけど、今のニーズに応える事で儲かるからと商業主義の作品群の中に埋没しちゃってる気が。またこれって先行投資みたいなもので、現状で人気があってお金になるのがより純化したものという現実も(’A`)
昔は漫画の週刊連載で取材の為に休載してると、さぼってんじゃないのとか思う事もあったけど、実際取材してるかはこの際置いといて、1次情報を得る機会っていうのは大事なのかなと考えたり。
まぁクリエイターやそれを目指す人は、簡易に書物やネット使って情報集めるだけじゃなくて、自分で体動かして五感で感じてそれを作品に生かして欲しいなと。

匂いの部分はあんまり考えてないからなんとも言えないけど、
文化は社会の余裕、無駄の昇華みたいなものだったのが、
産業の発展で商業主義に傾いて挑戦しづらくなってる感じはするかなー。

KEM
2009年6月25日4:27

2次情報からリスペクトしてもいいけど、その2次情報の元となった1次情報に興味を示すくらいはクリエイターとして最低限して欲しいってところかな?そのくらい苦にならない程度に好きな2次じゃないといいリスペクトにはならないだろうねー。

haifon
2009年6月25日10:09

2次情報を2次情報と意識してくれれば、否が応でも1次情報に目が向くと思うんだけど、テレビから始まった他者を通した形での2次情報での世界構築が、情報量の増加によって自らで能動的に情報の取捨選択をする事で、恰も現実から1次情報を汲み取ったかのように錯覚しやすくなってる。2次情報は他者を介在させる事で情報が変質・劣化しているはずなのに、表現の自由さや情報量の多さがそれを意識させない。
  現実
|1次 情報|
|2次情報|
|3次|
イメージ的にこんな感じ(上手く出来てるか微妙)の逆ピラミッド型構造が無意識に構築されて、純化して先細りしていくんじゃないかなと。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索