(’A`)

2011年10月16日 思索もどき
(’A`)
 CGがどんどん綺麗、鮮明になっていく中で、
コンピュータゲームが社会的に有用とされるとしたら、
仮想現実における疑似体験を得る事が出来る点だと考える。
歴史的資料として残る写真や映像を、CGで再現し仮想現実を作る事で、
例えば過去の凄惨な戦争を、より主観的に体験する事が出来る。
 平和が謳われる中、繰り返される戦争の悲劇は、
偏に大義という美辞麗句に目を曇らせ、その手段として行われる戦争について、
各々が死者の数といった数字などでしか理解せず、
つぶさにその悲惨さを想像できないからであろう。
戦争と言われてイメージする戦車の砲撃や、兵士の発砲する先には、
必ず死体があるのだという事を、知っている人はどれだけいるのだろうか。
 現実には出来ないこういった事を体験できるという点で、
コンピュータゲームの有用性は限りなく大きい。

 しかし、これらが機能するにはある前提が必要となっていく。
それは主観によって得られた情報を、正しく受け取れるかという点であり、
現実と仮想の差異を理解し、自らの想像力できちんと補充できるかという事である。
 昨今の社会においては、新型うつ病や過敏性腸症候群などの、
精神的ストレスから引き起こされる現代病がよく話題として取り上げられている。
これら現代人の精神的打たれ弱さの要因は、
核家族化や、都市型生活による地域社会への帰属の希薄化といった、
日本の社会構造の変化によって、
幼少時において集団生活で年長者による圧力を受ける場面が減り、
自分の行動などが制限され、
また注意される事への耐性がついていないのではないだろうか。
 さらに、現代のネットワークシステムの発達は、年長者との対話の機会の減少を超え、
集団へ帰属する意味を失わせ、孤人化を加速し、
より人の精神への痛みの耐性を下げていると思わずにはいられない。
一方、物理的痛みについてはどうだろうか。

疲れたから、続きはまた今度適当に書きます(’A`)アヘヘ

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索